philosophy

148年にわたる伝統と
21世紀の学びを追求する革新

建学の精神

  • 東洋の精神による人格の陶冶
  • 己を修め人を治め一世に有用なる人物を養成す

グローバル化が進むこれからの国際社会。自ら考え行動する、人に信用され社会に貢献する、自国と他国の文化・歴史を正しく理解する、それらを通じて多様な価値観を共有できる真の国際人の養成を目指します。

※陶冶(とうや)…人間の持って生まれた性質を円満完全に発達させること。

創立者 三島中洲の思い

創立者 三 島 中 洲 (1830〜1919)

二松学舎は明治10年、漢学者であり法曹界の重鎮であった三島中洲により創立されました。本校は、三島中洲の建学の理念である「自国の文化を正しく理解し、母国語を正しく表現できる真の国際人の養成」「異なる文化・歴史を理解し、多様な価値観を認めようとする視点を養成」の実現に向けて日々教育を行っております。この建学の理念の実現がこれからの時代に求められるグローバル人材育成であることは明白であります。本校では、「自問自答」をキーワードに、「思考力」「判断力」「表現力」「コミュニケーション力」を効果的に身につけ、21世紀の荒波を乗り越え、社会に貢献できる人材を育成します。

舎長歴任者

渋沢 栄一 (1840〜1931)

埼玉の富農の家に生まれ。幼い頃から父に学問の手解きを受け、従兄弟の尾高惇忠から「論語」などを学びました。「論語」の倫理思想を現代的に解釈し、「道徳経済合一説」を説き続けました。1919年、第3代二松学舎舎長に就任し、二松学舎の発展に尽力しました。

吉田 茂 (1878〜1967)

東京生まれ。東京帝国大学卒業後、外務省に勤務し各国の大使を歴任。戦後は吉田内閣を組織し、7年余の政権のなかで、新憲法の発布やサンフランシスコ平和条約締結など戦後復興の礎を築きました。岳父牧野伸顕が二松義会の顧問を務めたこともあり、 1963年、二松学舎舎長に就任しました。

二松学舎で学んだ著名人

夏目 漱石 (1867〜1916)

明治時代を代表する文豪。少年時代の一時、二松学舎で学び、多感な青春時代を過ごしました。この学び舎で、「史記」や「論語」「唐詩選」「皇朝史略」といった古今の漢文に触れ、その知識と教養を存分に深めていきました。儒教的論理観や東洋的美意識を磨いたその神髄は、後に遺した作品の多くに垣間見ることができます。

犬養 毅 (1855〜1932)

明治23年の第1回衆議院議員総選挙での当選以来42年間で18回連続当選し、政党政治家として活躍。世界恐慌や満州事変等、国政が困難を極めた時期に内閣総理大臣に就任、積極財政をとって不況対策に努めました。

平塚 雷鳥 (1886〜1971)

女性解放運動家。婦人文芸集団・青鞜社を創設、婦人参政権運動に尽力しました。明治39年頃、二松学舎で漢文を学びました。漢学は「永久に根本的に青年の学ぶ価値のあるものであり、新しいもののもとになるものである」と説いています。

嘉納 治五郎 (1860〜1938)

明治11年、二松学舎に入塾。講道館を創設し、柔道普及に尽力。高等師範学校校長として教育界の人材育成につとめました。また国際派でもあり、中国からの留学生教育や柔道の国際化にも注力しました。日本の初代IOC委員としても活躍しました。

中江 兆民 (1847〜1901)

明治期の思想家。仏国留学後、東京で仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開きました。1881年には西園寺公望と共に、東洋最初の日刊紙「東洋自由新聞」を 創刊。主筆として明治政府を攻撃し、民権思想の普及に筆を振るいました。翌年、ルソーの『社会契約論』を漢語訳し、出版するなどし、”東洋のルソー”と呼ばれました。