学校法人二松学舎は一八七七(明治十)年十月十日、漢学者であり、明治法曹界の重鎮であった三島中洲が、九段の地に漢学塾二松学舎を創立したことに始まりました。当時の日本は、鎖国を解き欧米など先進国の文化が大いに取り入れられ、所謂西洋学の華やかな時代でした。同時にこの年は、西郷隆盛らが起こした西南戦争の年でもありました。これは明治政府に対する不平士族の最大かつ最後の反乱であり、落ち着かない世情でもありました。
教育制度を見ると福沢諭吉(慶應義塾の創始者)の影響が大きく、国民皆学の理念と日常生活に役立つ実学を中心とした、広い意味での洋学が主流でした。この流れに対し中洲は渋沢栄一に宛てた書簡で「世間ヲ顧レバ、洋学盛行漢学絶滅セントスルヲ慨シ、一は漢学再興ノタメ」、二松学舎を開設したと述べています。つまり、中洲は西洋文明の進んだ部分を自分たちのものにするには、まず東洋の文化を学び、日本人の真の姿を知ることこそが重要であると主張したのです。これが建学の精神「東洋の精神による人格の陶冶」及び「己ヲ修メ人ヲ治メ一世ニ有用ナル人物ヲ養成ス」なのです。
この精神が「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一を二松学舎と結びつけたのです。渋沢は近代日本の経済社会に大きく貢献しましたが、一方で常に『論語』に基づく東洋道徳を根底に置き、欧米の追随でない日本型社会の実現を追求しました。この点において、渋沢と中洲の間には深い交流があったのです。だからこそ、渋沢は二松学舎の第三代舎長(今で言う理事長)になり、二松学舎独自の教育を進めたのです。
この精神を受けて本校の校訓「仁愛・正義・誠実」があるのです。今の世の中が「利益中心の経済優先」で「仁愛、他者への思い遣り。」「正義、正しい心。」「誠実、真心があり真面目な行動。」の三つがないがしろにされています。今日の創立記念日を契機として、より良い社会の実現に向けてともに歩んでいきましょう。
二〇二〇年十月十日
二松学舍大学附属柏中学校・高等学校 校長 芝 田 周 一